高野山町石道をあるく
こんにちわ。
みなさんは「高野山町石道」、ご存知でしょうか。
現在は快適な道路ができ、またケーブルもあり簡単にアクセスできる高野山ですが、かつて空海が山を開いた当時は、当然、歩いて登っていたわけです。その信仰の道が、「町石道」です。
その道を歩いてきました。

前回ここをはじめて歩いたのは2010年6月でした(詳しくはこちら)気がつけばあれからもう3年が経過していました。
マップはこちらにあるので参照してください。
ではスタートです。
まず南海難波駅へ。高野山方面行きの急行に乗り込みます。

実は私、父親の生まれが高野山なので、南海高野線は馴染みがあります。あの頃の南海電車はうぐいす色を基調とした車体でした。現在の銀色の車体はどうもしっくりきませんが、これも時代の流れなんでしょう・・・。と、少しノスタルジーに浸ります。
橋本駅で乗り換えて、九度山に到着です。ここは昔ながらの雰囲気が残っています。

駅を降りて少し歩くと真田庵があります。

真田庵、正式には善名称院といい、1600年関ヶ原の戦いの後、豊臣方に味方した真田昌幸・幸村父子が蟄居させられた場所です。父の昌幸はこの地で果てましたが、息子、幸村が大坂の陣(1614年)で再び活躍したのはご存知のとおりです。行ってみると「こんな小さなところに高名な武将が住んでいたのか?」とびっくりします。

・・・続きは「その2」で。
みなさんは「高野山町石道」、ご存知でしょうか。
現在は快適な道路ができ、またケーブルもあり簡単にアクセスできる高野山ですが、かつて空海が山を開いた当時は、当然、歩いて登っていたわけです。その信仰の道が、「町石道」です。
その道を歩いてきました。

前回ここをはじめて歩いたのは2010年6月でした(詳しくはこちら)気がつけばあれからもう3年が経過していました。
マップはこちらにあるので参照してください。
ではスタートです。
まず南海難波駅へ。高野山方面行きの急行に乗り込みます。

実は私、父親の生まれが高野山なので、南海高野線は馴染みがあります。あの頃の南海電車はうぐいす色を基調とした車体でした。現在の銀色の車体はどうもしっくりきませんが、これも時代の流れなんでしょう・・・。と、少しノスタルジーに浸ります。
橋本駅で乗り換えて、九度山に到着です。ここは昔ながらの雰囲気が残っています。

駅を降りて少し歩くと真田庵があります。

真田庵、正式には善名称院といい、1600年関ヶ原の戦いの後、豊臣方に味方した真田昌幸・幸村父子が蟄居させられた場所です。父の昌幸はこの地で果てましたが、息子、幸村が大坂の陣(1614年)で再び活躍したのはご存知のとおりです。行ってみると「こんな小さなところに高名な武将が住んでいたのか?」とびっくりします。

・・・続きは「その2」で。